椅子に座って、しばらくすると、冴えない中年の男性美容師が、私に尋ねてきた。
「今日は、どのようにされますか?」
指名をしていなかったので手が空いていた彼が、担当になったようだ。
「今の形を生かして3センチぐらい短くしていただきますか。」
今まで、美容院で、一度も望んだ髪型になったことがない私は、いつもそう言ってオーダーをする。
彼は、少しはにかんだ笑顔で、わかりましたと答え髪を切り始めた。
毛先を一掴みしながら、素早くハサミを入れていく。リズミカルに均等に、揃えられていく私の髪。
余計な言葉もなく、お愛想を浮かべるわけでもなく、あっという間に施術が終わった。
「終わりました」
合わせ鏡を手に取り後ろの髪を見せてくれた。
髪型を見て、思ったより短く感じて、違和感があった。
会計を済ましながら私の頭の中は、「あー、今回も、オーダー通りにならなかった。失敗したわ、、、」とその時は、そう思ったのだった。
家にたどり着くなり、洗面所に行って髪型を確認した。
「あれ、意外とイケてる。」
後ろの髪も短めだけど頭の形が綺麗に見えるような、カープを描いていた。
かみを掻き上げると、収まりがよく、毛髪の量も、上手いことコントロールされて、もっさりしていない。
そして極め付けは、その日帰ってきた夫が、
「髪切った?」と言ったこと。
いつも絶対気づかない夫が、私を見るなり似合ってるねと呟いた。
私は今日あったことを夫に話した。
なんか冴えないおじさんが、髪切りだしてさーと、かくかくしかじか話すと、「俺もそこで切ってもらう」という話になり、その週末に、美容師のMさんに切ってもらった。
「嫁が、めっちゃ上手い美容師さんがいるというので伺いました」といって夫はMさんを指名した。
Mさんは、「僕なんかでいいんですか?」と笑うと、照れながらも嬉しそうにした。
椅子に座ると社交的な夫は、すぐにMさんと意気投合して、楽しげに会話しながら施術が始まった。
Mさんはこの店の近くに住んでいること。
髪が薄くなりかけたMさんだけど昔は長髪で肩より髪があった事やお酒が好きな事なんかを話しながら髪を切ってもらう。
その頃坂本龍一さんが亡くなった月で、坂本さんの写真がよくテレビで流れていて、「坂本龍一さんみたいな髪型にして」とオーダーしたら、夫の扱いにくい髪型を見事に坂本龍一風にしてくれた。(どんな、オーダーだよ、おい😋)
夫も私も、その日から二人揃ってMさんに髪を切ってもらうようになった。
Mさんのカットは、今までのカットとは、全然違っていた。
軽やかなのに、まとまる。おさまりのいい髪型。文才がない私には上手く伝えられないが、時間が経っても扱いやすい。
Mさんがカットした髪はずっと気に入った髪型であり続けた。
2ヶ月に一度の割合で夫と共に髪を切りに出かけた。
Mさんにカットしてもらいながら、聞いた話によるとMさん一家はお祖父さんの代から理容師、美容師一家だそう。お母さんも妹さんも美容師でお家で美容院を経営していたそうだ。
だが、時代の変化でお客さんも減り、店を畳んでMさんは、このお店にアルバイトで来ているのだという。
通りで、Mさんのカットは、上手いはずなんですねというと、いやいやまだまだですよと笑った。
それから夏が過ぎて秋になり、Mさんの予約が取りづらくなってきた。
Mさんのお母さんが病院に入退院しているらしく、そのお世話で短時間勤務になってるらしい。
少し時間が経てば、また、通常の勤務になるかしらと思い、私たちは、待つことにした。
年末のクリスマスソングが店内を賑やかに流れ出す頃、予約を取ろうとしたら、カウンターの女性が、気まずそうな顔をした。
「実はMは、先月体調不良でお店を退社したんです。」
夫と二人、顔を合わせて驚いてた。
そのまま帰るのもなんだし、仕方ないので二人、Mさんとは違う美容師さんに切ってもらった。
Mさんを踏襲する形で切ってもらっていいですか?というとMさんではないが優しそうな男性の美容師がわかりましたとうなづいた。
Mさん、残念でしたね。突然辞められたんですよといった。
店を後にして、夫に「Mさんが体調不良って、短時間勤務が多くなって店に居づらくなったのかな?」
そうかもね、土日お休みする事も多かったみたいだしね。と夫は言った。
それから、よくドライブ中に、Mさん元気かなぁ、どっかで美容師のバイトしてたら探して行きたいね。と二人でMさんの話をしていた。
そういえば、最後に髪を切ってもらったのが10月の終わりだった。
Mさんは、気を許した私たちに色んな話をしてくれた。「今度ね、半導体の株が上がるってきいたから勝負しようと思うんですよー」と危ない投資話を教えてくれて、お茶目なMさんに夫婦して笑ってしまった。
一月も半ばを過ぎて、テレビでは、日経平均の株価がバブル以降最大のあげだと伝えている。
日本株が上がるたびにMさんを思い出して懐かしんだ。Mさん、あれから半導体の株買ったかな?
先週の日曜日の朝、髪を切りにいくと夫は美容院にいった。
私は、今日は、いいや。今度切るよ。とMさんじゃないから、イマイチ乗り気になれず家にいた。
数時間して夫が帰ってきた。
「Mさん、亡くなったんだって」
え、どうしてと動揺して意味が飲み込めないでいたら、夫が続けた。
「荷物も置いたままで辞めたみたいでお店の人が家族に電話したら先月の初めに亡くなったんだって。」
二人とも、とても悲しくなった。
元気にしていると思っていたのに、やっと理想の美容師見つけたと思っていたのに。
合掌。
そしてとてつもなく悲しい。
落ち着いたらお墓にお参りに行きたい。
でも上の名前しか知らないことを悔やんだ。
Mさん、あなたは私にとって伝説の美容師でした。
人生始まって以来、気に入った髪型でこの一年過ごせました。
あなたのカット技術は、私史上最高でした。
ありがとう。そしてさよなら。
美味しいお酒を、飲んでね。またね。