小さなスキャンダルが起きる。地方議員の私的な不倫、そして「ラブホテル」という言葉が出た途端、バラエティ番組はまるで祭りのように手を叩いて盛り上がる。
パネルは延々と下世話なニュアンスを繰り返す。
本来の公共的関心事──職務の乱用、公的資源の私的流用──はわずか5秒。性的な細部は50分。
稼がれるのは視聴率、市民が得るのは何もない。
海外から見れば、これは奇妙に映るだろう。多くの国では、報道の中心は「権力や公金の不正使用」である。
日本では、性的な行為そのものが「番組」になる。
それはニュースではなく、「羞恥の儀式」をニュースに見せかけているだけだ。
これは不正を擁護する話ではない。
問いかけたいのは、なぜ「現代的」なはずの日本のメディアが、いまだに「性」を公開の屈辱コンテンツとして扱い、それを奇異とも思わない人がこんなにも多いのか、ということだ。
なぜ「性」は見世物にされ続けるのか — 4つの理由
1)ワイドショーの長い尾
戦後のテレビは、スキャンダルを「家族向け娯楽」として定着させた。
その習慣は硬直化し、性的話題を「軽いネタ」として扱うのが条件反射になった。
一度フォーマットが笑い声に固定されれば、追うのは事実ではなく羞恥だ。
2)薄い性教育、濃い赤面
「性=恥ずかしいこと」と学んで育った人は、議論せず、ただクスクス笑う。
大人になっても会話は思春期レベルのまま。成熟した語彙が育たないから、テレビは婉曲表現と嘲笑に頼るしかない。
3)上を見上げるより、下を叩くほうが安全
予算や監督制度、政策への批判は難しく、リスクがあり、スポンサーに失礼になることもある。
個人の道徳的失敗を叩くのは簡単だ。だから「誰が誰と寝たか」を追い、「何にいくら使ったか」を問わない。
4)“羞恥文化”のスイッチ
「罪の文化」では「ルールを破ったか?」が問われる。
「恥の文化」では「見られたか?」が問われる。
「見られること」が罪なら、「見せること」そのものが罰になる。
視聴率=正義という錯覚だ。
羞恥を見出しにすると失われるもの
- 公共の説明責任
ベッドルームに固執するあまり、会議室を見落とす。公用車、予算、職員の時間──これこそ民主主義の課題だ。 - メディアの信頼性
全国放送がゴシップ誌のように振る舞えば、信頼は失われる。危機のとき、本当に必要な情報さえ信用されなくなる。 - 女性の安全と尊厳
実際のところ、テレビ上で道徳的により厳しく裁かれるのは女性だ。「公開羞恥経済」は女性の身体に偏って代償を押し付ける。 - 合意と権力についての大人の対話
タブロイド的な framing は区別をぼかす。私的で合意のある性とハラスメント、不倫と強制、個人的な失敗と公共的不正──これらが混同される。
「文化だから」— そうだ、だが文化は編集できる
海外の友人(イギリス人)に率直に言われたことがある。
「日本の妻って、召使いみたいに見える」
残酷な言い回しではあるが、要点は「従属の光景」についてだった。
同じ視線は日本のテレビも見ている。そこに映るのは、いまだに「性」を笑い、恐れ、罰する国だ。
『ハンドメイズ・テイル』がフィクションなら、日本の昼間のパネル番組はそのノンフィクション脚注に見えることがある。
カズオ・イシグロの作品も「社会があえて語らないもの」を扱う。
沈黙は思いやりになることもあれば、共犯にもなる。
日本のテレビはそれをしばしば取り違える。
人道的に黙るべきところで騒ぎ、権力を監視すべきところで黙る。
それは「伝統」ではない。壊れた設定だ。
性関連報道のための「公共性チェックリスト」
放送前に、編集者が次の3つを確認すればよい。
- 権力テスト
上司と部下、教師と生徒、政治家と市民など、合意に影響する権力差はあるか? あるなら「権力の問題」として報じるべき。 - 公金テスト
公的資源が使われたか? 使われたなら支出を取材し、性は付随情報として扱うべき。 - 必要性テスト
性的な詳細は、市民の理解や政策への認識を実質的に変えるか? 変えないならベッドルームを省き、予算を報じよ。
これは検閲ではない。編集の成熟だ。
「でも視聴者が求めてる」— 野菜だってそうだ
番組編成は天気ではない。メニューだ。
人は出されたものに慣れる。
調達監視を12分、わかりやすいビジュアルと人間的な関心で伝えれば、視聴者は見る。(本当に見る。モーショングラフィックスを入れ、好奇心ある弁護士を一人呼べばいい。大したことじゃない。)
屈辱を出し続ければ、羞恥を「市民的美徳」と勘違いするだけだ。
市民が明日からできること(白けて目をそらす以外に)
- チャンネルを変える。 怒りも視聴率だ。無関心のほうがコーナーを早く潰す。
- 具体的に抗議する。 「性の実況はやめて、資源の乱用に焦点を」と伝えれば、制作者は聞く。
- 大人のように振る舞う媒体を支援する。 購読、共有、寄付。倫理には酸素が要る。
- 語彙を教える。 正直な性教育は文化のインフラだ。「言えないこと」が減れば、広告のために羞恥を売る必要もなくなる。
日本語と英語の狭間から
私は日本語と英語の両方で書くが、違いを感じる。
英語では「feminism」と言えば「平等」を意味できる。
日本語では「女性の生きづらさ」と言わなければ、文が終わる前にドアが閉じられる。
同じ論点でも、鍵は違う。
テレビが性を公開鞭打ちにし続ける限り、特に若い女性に伝わるメッセージはこれだ。
「一度でも踏み外せば、全国規模での屈辱が待っている」
それは公共の道徳ではない。冷却効果だ。
「公共の道徳」を本当に気にするなら、矛先は上に
権力と公金に基準を課せ。
合意した大人の性は、直接交差しない限りステージに上げるな。
私たちは市民を大人として扱い、メディアにも同じ成熟を求める国になれる。
あるいは光るものに笑い、ニュースと呼び続ける国でいることもできる。
笑い声の効果音は安い。
民主主義は安くない。