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映画「遠い山なみの光」を見てきたので長崎人的な映画レビュー

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感想を長崎弁で述べます。

「こいは、長崎人じゃなからんば、わからっさんちゃないかな」
(=これは長崎の人間でなければ、わからないのではないだろうか)

――その思いに導かれるように、私は映画館の扉を開いた。
カズオ・イシグロと同じ土地に生まれ落ちた者として、この作品を見過ごすことはできなかった。記憶と風土が折り重なる長崎。その地に育った者として、どうしても向き合わねばならなかったのだ。

原作小説も手に取った。けれど冒頭の数十頁で読むのをやめた。予備知識をいっさい持たず、白紙のまま映像と対峙したかった。

スクリーンに映し出されたのは、土地の記憶と私自身の記憶が不意に重なり合うような光景だった。胸の奥に沈殿していた言葉にならない感情が、ひとつの映画によってかき混ぜられていく。

主人公の女性がかつて勤めていた小学校――城山小。私もまたその校舎に通った。私がいた頃は戦後三十年ほど経っていたが、まだ被爆を直接知る人々が多く残っており、彼らの沈黙の奥に生々しい記憶の影が潜んでいた。城山は爆心地に近く、多くの子どもたちが命を落としたと聞く。しかし長崎の人間は、あまり多くを語らない。沈黙の厚みこそが、この土地の風土なのだ。

あと、猫好きの方へ注意⚠️
少し残虐でセンシティブな表現あり。

――ここからネタバレを含みます。これから映画を見ようと思っている方はご注意を。

なぜ、語らないのか。

語れば、生き残った者が再び傷つくからだ。特に女性は、結婚や家族を持つことにおいて深い差別を受けた。原爆によって傷を負わされ、さらに「被爆者」という烙印で未来を奪われた。二重の痛みに耐えかねて、彼女たちは異国へ渡ることを選んだのかもしれない。過去を問われない場所で、ただ一人の女として生きるために。

映画に現れる女たちを見ながら、私はふと考える。彼女たちは別々の存在に見えて、実は一人の女性の時をずらした分身ではないか、と。

広瀬すずは過去の自分、二階堂ふみは現在の自分、吉田羊は未来の自分。まりこがけいこに重なっていくのも、記憶が曖昧に入れ替わっていく仕掛けなのだろう。イシグロ作品に通底する「記憶の不確かさ」「語り手のねじれ」が、映像の中でささやかに発動している。

だからこの映画は群像劇ではなく、ひとりの女性が分裂した時間の中で生きている物語なのかもしれない。

人は、耐えがたいほどの現実に直面したとき――「それは自分に起きたことではない」と無意識に距離を置こうとする。心がその重みに耐えきれず、バラバラに砕けそうになるとき、別の視点や別の人格に逃がすことで、どうにか自分を守ろうとするのだ。

心理学で言う「解離」という現象も、それに近い。トラウマやPTSDを抱える人は、確かに自分が体験した出来事なのに、自分のこととして思い出せない。まるで他人の記憶のように語ったり、夢の断片のように感じたりする。それは決して「弱さ」ではなく、「生き延びるために心が選んだ仕組み」なのだ。

だからこそ、イシグロが描く“分裂した時間”や“語り手のねじれ”は、単なる文学的トリックではないように思う。むしろ、人間が過酷な現実を生き延びるために、無意識のうちに記憶を加工し、ねじ曲げ、重ね合わせる――その根源的な営みを映しているのではないだろうか。

イシグロの作品には常に「記憶は信じてよいのか」という問いが横たわっている。『日の名残り』でも、『私を離さないで』でも、『私が孤児だったころ』でも、そこにいるのはつねに不確かな記憶に足を取られる語り手だ。今回もまた同じ仕掛けが施されている。ファンであれば「はいはい、また来たな」と微笑む余裕があるが、初めて触れる人には戸惑いと拒否を呼ぶだろう。人を選ぶ作品である所以だ。

すべてを見終えて、私は確かに思った。――私はこの映画が好きだ。
救いにも絶望にも振り切らず、ただ曖昧に途切れる結末。その宙吊りの感覚こそ、イシグロの真骨頂であり、だからこそ観客の心に長く棲みつく。

夫と一緒に観なくてよかった、と心底思う。きっと彼は「意味がわからん」と言い、「映画代で刺身を買えばよかった」とぼやいたに違いない。

刺身は一緒に食べても、イシグロは一緒に見ない――その線引きが、夫婦をむしろ安定させているのかもしれない。

最後に、この映画をより深く味わえたのは、長崎出身の作家・林京子の作品を読んでいたからだ。被爆女性が背負った痛みを知っていたからこそ、スクリーンの光と影が胸に鋭く差し込んだ。

目次

「遠い山なみの光」の背景

思ったのはあの映画、海外では分かりづらいだろうなと。そして日本人でも分かりにくい。大丈夫なんだろうかと不安になった。なので、少し自分でも整理しておきたい。

イシグロの『遠い山なみの光』は、ただでさえ記憶のねじれや語り手の不確かさで「わかりにくい」作品だ。そこに 長崎の土地の記憶 や 被爆者の沈黙 が絡んでくる。日本人でも背景を知らなければ「何を言っているのか分からない」と感じやすい。

海外ではさらに距離がある。

  • 「被爆者がなぜ語らなかったか」
  • 「特に女性が二重に傷つけられた歴史」
  • 「沈黙こそが語りである」という文化的な感覚

これらは、単純に字幕で言葉が伝わったとしても、その背後にある歴史と感覚がなければ理解しきれない部分だ。

女性への被爆者差別

これがわかってないと、主人公の女性がただナイーブなだけに見える。

被爆者差別という視点を持っていないと、観客は主人公の女性を「過去を引きずる、ナイーブな人」としか見られなくなる危険があるじゃないだろうか。

でも実際は違う。彼女は単に「弱い人」ではなく、時代と社会から二重に傷つけられた存在なのだ。

  1. 原爆そのものによる身体的・精神的な痛み
  2. 戦後社会での差別や偏見
     ―「結婚できない」
     ―「子どもに影響が出る」
     ―「被爆者」という烙印による排除

この「二重の痛み」を知らないと、主人公の沈黙や距離の取り方は、ただの内気さやナイーブさに誤解されてしまう。

これは日本人でも若い世代には伝わりにくい部分だし、海外の観客にはほぼ抜け落ちる背景だろう。

映画の中で描かれた日本人夫婦のやり取りで妻が奴隷のようだった

日本人にとっては「夫の靴紐を結ぶ」「ネクタイをむすぶ」といった仕草は、家庭の中で自然に見られた行為だ。そして戦後の日本社会では「夫を立てる」「妻が世話をする」という役割分担が「普通」とされていた。

でも海外の観客が見ると、それはまさに 「主人と召使い」 のような主従関係に映る。そこにイシグロが意図を込めている可能性は十分あるのではないだろうか。つまり、最初の結婚においての別れは必然だという狙いが込められているのではと私は思った。

イシグロはイギリスで育ち、「The Remains of the Day(日の名残り)」では執事と主人の関係を通じて「従属と沈黙」を描いています。そのイメージを、日本の夫婦関係に重ねたのだとすれば、とてもイシグロらしい。

つまり――

  • 日本人には「懐かしい家庭風景」に見える
  • 海外の人には「不均衡で、支配的な関係」に見える
    この二重性を利用して、観客に「彼女はなぜ別れなければならなかったのか」という問いを投げているのかもしれない。

どうして嘘をつくのか?

主人公がイギリスで暮らしてる時に、娘のケイコが亡くなったことを年配の知人に黙っているシーンがある。それをもう1人の娘が「本当のことを言わないなんて、どういうつもり?」って主人公を責めた。

そのシーを見て思ったのは、私も、同じように言わないだろう。それは、知られることが嫌っていうより知ってしまうことでその年配の女性を傷つけてしまうと思うから。日本人は、本当に悲しいとき感情を露わにして相手に動揺を与えるのを好まないから。こういった日本人の精神構造を知らないと、主人公の女性がなんで嘘ばっかりつくのかと思われるのじゃなかろうか。そんなことを勝手に心配してしまったw

「日本人の沈黙」=無関心や冷淡さではなく、相手を思いやるための抑制 という点だ。

イギリスの観客が見れば、

「どうして事実を隠すの?誠実じゃない」

と感じるかもしれない。でも日本人からすれば、

「言わないのは、相手に余計な痛みを与えないため」

という気遣いの文化がありますよね。

つまり:

  • 西洋の価値観 → 正直に言うこと=誠実
  • 日本の価値観 → あえて言わないこと=思いやり

感情を抑制する日本人、なぜならば周りを悲しませないために。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が『日本の面影』などで何度も書いている。西洋人から見れば「なぜ日本人は悲しみを隠すのか?冷たいのか?」と映るけれど、実際はそうではなくて、あえて感情を抑えることで周囲をさらに悲しませないようにする――それが日本的な「哀しみの作法」なのだ。

葬式でも、取り乱すよりも静かに頭を下げ、涙を堪える。それは「悲しくない」のではなく、むしろ「周囲を思いやるために感情を抑制する」。「言わないのは、相手を傷つけないため」という感覚が、あの娘の死を伝えないというシーンが生まれたのではと思ったのだった。

『遠い山なみの光』と『タリーと私の秘密の時間』の共通点

カズオ・イシグロの映画『遠い山なみの光』を観ながら、ふと思い出した映画がある。

それは『タリーと私の秘密の時間』(原題 Tully, 2018年・アメリカ)だ。

3人目の出産を終え、心身ともに疲弊しきった母親マーロが、夜だけ現れて赤ん坊を世話してくれる“ナイトナニー”のタリーと出会う物語である。表向きは「育児と母の疲労を描いた映画」だが、観終わってから気づかされるのは、タリーが実はマーロ自身の若い頃の分身だった、という仕掛けだ。

イシグロの『遠い山なみの光』も『タリー』も、共通しているのは「分身」や「記憶のねじれ」を媒介にして、自己を見つめ直す構造をとっていることだろう。どちらも結局のところ、「今ここにいる自分」と「かつての自分」をどう統合するか、という問いにたどり着く。しかもそれを、戦後の生きづらさや結婚生活、育児の疲弊といった、きわめて日常的な文脈に落とし込んでいるからこそ、観客──とりわけ女性たち──の胸に強く刺さるのだ。

この二つの作品は「自己の分裂を描く物語」という点で同じ系譜に連なっているのかもしれない。作家的な好奇心から、こうした“分身もの”の作品は何を狙っているのかを考えてみたくなった。

私なりに意図を整理すると——

  1. 人間は「ひとつの自分」では語りきれない
     若い自分、母になった自分、戦争を背負った自分……。それらをひとつにまとめて語ることは不可能だからこそ、分身や記憶のねじれを使って「複数の自分」を見せる。
  2. 語れない記憶を間接的に語るため
     戦争体験や育児の疲弊を真正面から描けば重すぎる。だから「別の自分」や「幻想の人物」に託すことで、ようやく語ることができる。
  3. 観客を“考えるモード”に誘う
     明快な因果や解決を避けることで、「これはどういうことなんだろう」と観客自身に問いを残す。イシグロも『タリー』も、意図的に曖昧さを残し、解釈を委ねている。
  4. トラウマや疲労のリアルな表現
     心が追いつかないとき、人は実際に“解離”したり、“過去と現在を切り離して”語ったりする。その心理現象を物語に映し込んでいる。

つまり結論はこうだ。

👉 「人間はひとりの自分では生きられない」という現実を、文学や映画というかたちに翻訳しているのだと思う。

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