その日、彼の馴染みの蕎麦屋の暖簾をくぐった。
古い日本家屋の室内をそのまま活かした佇まいに、心が踊る。
室内には、淡い香が焚かれていた。
経済、政治、社会、美術──
私たちはさまざまな話題を交わした。
湯気の立つ蕎麦の向こう、箸を持つ彼の手の動きに、ときおり“間”があった。
その切れ目が訪れるたび、私は無意識に息を潜めていた。
文学の話になったとき、「ようやく私の出番だ」と思った。
最近読んだ『墨東綺譚』の話を持ち出すと、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「好きなの?」と問われ、私は頷く。
「どんなところに惹かれた?」
そう尋ねられて、ためらいながらも答えた。
「最初のシーン……雨の中、傘に女の人がすっと入ってくるところ。あそこが好きなんです」
彼の目に、ふっと火が灯った。
それは言葉にはしづらい、微細な“熱”だった。
まばたきのタイミングがわずかにずれ、
視線が一瞬だけ、私の唇の上を彷徨ったように見えた。
「君がそこに惹かれるなんて、ちょっと……いや、かなり意外だ」
そう言って、低く笑った。
その笑い声が、湿った夜気に紛れて耳に触れたとき、
私は、傘に入る側ではなく、差し出される傘そのものになったような錯覚を覚えた。
差し出される側がこんなに緊張するなんて、思ってもみなかった。
服を纏っているから安心だと、高を括っていた。
ところが、彼は視線の奥に“火”を隠していた。
その火が、静かに私の輪郭を炙っていく。
音もなく燃えるその熱は、気づいたときには私の肌の内側にじんわりと滲んでいた。
「意外かしら? どこかに連れて行かれるような気がして」
笑って返したつもりだったのに、唇の端が少し攣っていたのを、自分で感じた。
『……視線って、触れてるのね』
そう呟きたくなる頃には、
背中に、着ている服の“重さ”だけが浮いて感じられた。
それ以外の感覚は、もうすべて、外側に溶けていた。
彼の言葉は、まるで水面にひとしずく落ちるようだった。
波紋が広がるたびに、私の理性の輪郭が崩れていくのがわかった。
どこかで“冷静に”考えていた。
これはただの会話だ。話しているだけ。そう、ただ……。
けれど気づけば、私の指先はひどく熱を帯びていた。
彼は、ただ微笑んだだけ。
それだけで、もう、だめだった。
「……なんで、そんな目をするの」
声に出すつもりはなかったのに、こぼれていた。
──ずっとあとになって、彼は言った。
「あの時、君が崩れるのを、見てみたくなった。帰したくなくなったんだ」
あの雨の場面は、それから何度も思い出された。
思い返すたびに、違う色で、違う温度で、彼の影が降ってきた。
