あのときも、ちょうど今みたいに桜が舞い始めていて、日差しはすっかり春のきらめきだった。
noteを本格的に始めて、もう4ヶ月。
気づけば、130本ほどの記事を書いてきた。
これまでの平凡な人生を振り返りながら文章にしていくうちに、自分でも気づかなかった思いや出来事が、少しずつ浮かび上がってくる。
失恋、不合格、就職失敗。
私の中では「悪い出来事」として記憶されていたけれど、それらが実は、人生の軌道を修正するための大切な転機だったと今なら思える。
もし、何ひとつつまずかず、すべてが順調に進んでいたら——
今の私は、きっとここにはいない。
あのとき就職先が決まらず、たまたま人の紹介で入った会社に、夫がいた。
つまり、もしあの会社に行かなかったら、夫とも出会っていないし、今の子どもたちも存在していなかったかもしれない。
もし失恋していなかったら?
もし大学に受かっていたら?
もし最初の就職がうまくいっていたら?
——そう思うと、「悪いことがなかったら、今の人生にはたどり着いていなかった」というのは、本当のことなんだ。
そのときは、「なんで私だけ…」と落ち込んだ出来事も、今となっては、あれがあったからこそ出会えた人や、経験できたことがたくさんある。
人生って、うまくいかないことが「必要なピース」になっているのかもしれない。
悪いことが起きたときは、つい「最悪だ…」と感じてしまうけれど、もしかしたらそれは「より良い未来への分岐点」なのかもしれない。
そう考えると、これから先に何が起きても、「これはどこへつながっていくんだろう?」と、少しだけワクワクしながら受け止められる気がする。
「悪いことも、あとで福に変わるかもしれない」
そう思えるだけで、人生の見方は大きく変わる。
本当に、人生って予測できないし、思いもよらないところに、幸せが転がっているものなのかもしれない。
母は、いつも言っていた。
「なるようになるよ」って。
今になって、その言葉の意味が、ようやく少しずつわかってきた気がする。
だから、母の言葉を信じて、流れに任せてみる。
無理に抗わず、今できることをしながら、ただ流れに身を任せていく。
それって、実はすごく賢くて、シンプルで、最強の生き方なのかもしれない。
きっといつか、「この道でよかった」と思える日が来る。
「なるようになる」——そして、なるようになったその先には、ちゃんと意味がある。
そして今日――
あの日と同じように、春の日差しが降り注いでいた。
「久方の 光のどけき春の日に
しづ心なく 花の散るらむ」
(紀友則)
就職に失敗したあの春、この和歌が胸に沁みたのを今でも覚えている。
光はこんなにやわらかく、のどかなのに、自分の心は乱れていて、どうしてこんなに苦しいんだろうって思っていた。
でも今は、あの「しづ心ない日々」すら、人生の大切な一部だったと分かる。
桜が舞い散るように、時は過ぎていくけれど、そこにはちゃんと意味があった。
私たちは、33回目の結婚記念日を、ふたりで静かに迎えた。
